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観光

戦国時代の歴史を感じられるスポット「国史跡飯盛城跡(くにしせきいいもりじょうあと)」

大東市には、戦国時代の歴史を感じられるスポット「国史跡飯盛城跡」があります。
飯盛城跡は大東市と四條畷市にまたがる飯盛山(標高約314メートル)に存在します。

飯盛城は戦国時代の武将、三好長慶が永禄3年(1560年)から居城にしていた山城です。城跡には約450年前に造られた石垣や土塁、堀切、土橋、曲輪などが多数残り、その一部を見ることができます。大小114の曲輪(山を切り盛りした平らな地)が作られた城の広さは、東西400メートル、南北700メートルを測り戦国時代の山城としては、西日本有数の規模を誇ります。大東市観光ボランティアガイド「やまびこ」の副代表、林田惠子さんの案内で歩いてみました。

林田さんの解説を聞きながら、まずは大手門と思われる南の虎口(城の出入り口)に向かいました。「縄張り図の一番南側にある郭(城を構成する区画で,陣地や屋敷地のために作り出された平場のこと)が南丸にあたります。飯盛城の城域は大きく南エリアと北エリアに分けられています。南エリアは、三好長慶が家族や家臣と住んで居た居住空間だと考えられおり、北エリアは各郭の面積が狭く高低差があり防御空間だったと考えられています。」

虎口に着くと、さっそく石垣を見ることができました。「虎口に使用された石垣は鏡石を思わせる様な石が使われています。虎口の東側には三角形の石、西側では丸に近い特徴のある石が使われています。飯盛山は花崗岩でできた山ですから、石には不自由をしなかった様です。虎口は敵の進入を防ぐ為、通路は西に湾曲し千畳敷(広がった平坦な地形)を見通す事が出来ないように作られていました。また東側は竪堀で防御され西側は切岸・土塁・櫓などの防御施設が設けられ外からの進入を防いでいました。」と林田さんが説明してくれました。

大手門の虎口を抜けると城内最大の郭、千畳敷郭へ進む。「この千畳敷郭では礎石が2ヶ所発見され何らかの建物が建ち、日常生活用具等の土師器皿や瓦質の火鉢や擂鉢・抹茶椀・硯石等が出土しています。南丸では柱跡や土壁の焼けたものが出土し櫓のような建物があったと考えられています。」

南エリアの最高所に現在はFMラジオの送信所が設けられています。ここに、長慶の住まいがあったと考えられており、「茶道具に使用する瓦質の風呂・抹茶椀等も出土しているので、この千畳敷で連歌の会を催していたかもしれません」と林田さんが教えてくれました。

北側に上がって行くと敵の進入を防ぐS字形土橋のある堀切(尾根を遮断する空堀)を超え、まずは高櫓郭へ。ここには南北朝時代の武将で、大東市と由縁のある楠正行の銅像が建てられています。

5メートル程を下り本郭へ進むと、展望台があります。大阪平野が見渡せ阿倍野ハルカスまで一望出来、天気が良ければ、明石海峡大橋が見え淡路島も見えるそうです。
三好長慶は当時の「天下」とされた京都を支配したことから「天下人」といわれ、五畿内を併せ13か国を支配していました。展望台から大阪平野を見渡すと、ここが三好長慶の本拠地だったことを実感出来ました。

本郭、東側の斜面に沿った石垣に沿って回り込むとⅢ郭へと続く。さらに、Ⅲ郭から北へと向かうと、長慶が2年間、仮埋葬されたと伝わる御体塚郭に着きました。
「三好長慶が亡くなったことは、死後、暫くの間は一部の者にしか知らされていなかったそうです。理由は外部に知れ渡ると一挙に敵から攻められてしまう恐れがあるからです。」と林田さんが教えてくれました。今では考えにくいが、山城だから長慶の死を上手く隠せたのかもしれないと感じました。

大東市と四條畷市は、平成28(2016)年から3年かけて飯盛城跡の調査を実施。その結果、城全体に石垣が造られていたことなどが明らかになり織田信長に先駆けた「石垣の城」と考えられています。そして、飯盛城跡は令和3(2021)年10月、国史跡に指定された。令和4年(2022年)には三好長慶生誕500周年記念の年にあたり、より一層注目を集めることになると思います。
大東市都市魅力観光課では、大東市魅力発信サイト「エエトコ!だいとう」内で「河内飯盛山登山コースガイドマップ」を公開しています。皆さんも是非、「飯盛城跡」に来て歴史ロマンを感じてもらえればと思います!!

大東市魅力発信サイト「エエトコ!だいとう」
https://www.city.daito.lg.jp/site/miryoku/

大阪産業大学 経営学部 商学科 澤登ゼミ チャン ホアン トゥイ ティエン

 

この記事はこちらの総合戦略に関する記事です

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